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2022/07/12 コラム

【コラム】鎌倉殿の13人 頼朝の側近中の側近、安達盛長とその妻、比企尼の長女「丹後の局」

畠山重忠のもう一つの魅力をご紹介する前に、頼朝の死により主を失い政子と同様に最も悲しみに暮れていた「安達盛長」とその妻であった「丹後の局」についてご紹介したいと思います。
 
比企尼長女である「丹後局」は、平治乱で源氏が敗れ、頼朝が平氏によって伊豆蛭ヶ小島に幽閉されていたとき、母である比企尼いいつけで頼朝に仕えていました。
流人時代頼朝は現代我々考える「流人」イメージとは違い、不自由な面はありながらも、伊豆国内であれば行動は比較的多めに見られていたようです。

また、蛭ヶ小島といっても海上島ではなく、中州ような場所であったようなで、外出は容易だったと考えられています。

さて、丹後局と流人時代頼朝と子、島津忠久は薩摩・大隅日向南九州三か国守護職に任じられそ後長く南九州を治める島津氏祖になったことはコラム《比企尼はなぜ流人「頼朝」を20年も支え続けたか、そ狙いとは》回でご紹介しました。

忠久が生まれたは島津系図によると治承三年(1179年)とあり、それは、頼朝が北条政子と恋に落ちたちょうどそころで、政子は嫉妬して丹後局を伊豆から追い払ったといいます。「曽我物語」によると、それは治承二年(1178年)、頼朝32歳、政子21歳時でした。当時から政子強さがうかがえるエピソードです。

忠久を生んだ丹後局は、そ後伊豆で共に頼朝に仕えていた「安達盛長」に嫁ぎました。ドラマにも登場する「安達盛長」は藤原氏出を称して「藤九郎」といいました。藤九郎は丹後局たちと共に、早くから蛭ヶ小島で流人頼朝に仕えていたそうです。

安達(藤九郎)盛長は現在埼玉県鴻巣市糠田(ぬかた)殿内出」に館を構えていたと言われています。すぐ北にある「放光寺」開基は盛長で、南北朝時代に制作されたといわれる木彫り坐像(埼玉県指定文化財)が残されています。

(話がそれますが、こ木彫り坐像は近頃修復が行われており、際に江戸時代墨書が発見されたそうです。坐像構造から、江戸時代に作られたということは決してないそうで、残っていた釘・かすがい痕跡からすると過去に大きな修理が2回行われていたようです。一つの仏像を通してその歴史も刻まれていることに驚きます。)

丹後局と安達(藤九郎)盛長間には後源範頼正妻となる「亀御前」がいました。

娘(亀御前)夫、源範頼が頼朝に鎌倉を追放され伊豆に幽閉されたとき、安達盛長も範頼について修善寺に赴いたそうです。しかし護送されて一週間目に範頼が自刃したで一旦鎌倉に帰ったと言われています。(範頼最期については多く説があります。ドラマでは刺客に襲われましたね)

やがて正治元年(1199年)正月13日に主君である頼朝がなくなると盛長は出家します。蓮西(れんさい)と名乗りました。そしてそ後二代将軍・源頼家宿老として十三人合議制一人になり、幕政に参画しています。

ところで盛長と丹後間には、亀御前他に男子、「安達景盛」がいました。

頼朝がなくなり、2代将軍となった頼家と盛長の息子景盛は不仲でした。

頼家は2代将軍となったそ夏、中野能成や和田朝盛、比企宗員らに命令して景盛愛妾を奪い、景盛を誅殺しようとしたそうです。危機一髪、景盛は政子に救われる、という事件がありました。これは吾妻鏡に記載されています。

吾妻鏡はそ後権力を握る鎌倉幕府北条氏による編纂書であるため、内容については意図をもって書かれているとも考えられます。
 
その意図とは。
夏に起きた景盛事件後、秋「梶原景時変」をきっかけに忠臣を失っていく頼家。そしてそ後唯一支柱となった比企氏も北条氏によって滅ぼされていく、そ正当性伏線になっているでは、とも考えられます。
 
話は戻って梶原景時後、安達盛長は再び修善寺を訪れます。
そして正治2年(1200年)4月、66歳で亡くなりました。
修善寺裏高台には安達盛長墓があり、近くには源範頼墓、また少し離れて南側には源頼家墓もあります。

そしてそ後1203年には比企氏乱がおきます。盛長丹後局は身危険を感じ、九州にいる我が子である島津忠久もとへ向かいます。警護にあたったは越生氏(おごせ)一族、越生宏斎であったと言われています。

それは当時、越生氏が比企・入間・高麗三郡郡司であった比企氏配下だったからだそうです。

また、そ手引きをしたは畠山重忠であったといわれています。
 
頼朝死からわずか1年で亡くなった安達盛長。1年激動変化を見て何を想ったでしょうか。丹後局は夫亡きあと、比企乱を逃れ遠く九州地で息子忠久と穏やかに暮らすことはできたでしょうか。

鹿児島県鹿児島市花尾町花尾神社境内には、丹後墓が残されています。

社伝によると、建保6年(1218年)に島津忠久が父源頼朝、丹後局、神社創始者である永金阿闍梨を祭る為に創建したとされています。
 

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今回も比企総合研究センター代表である、当社管理物件オーナーでもある髙島敏明様にお話しを伺いました。

比企総合研究センター https://www.hikisouken.jp/ 参考文献:甦る比企一族 比企総合研究センター刊

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