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2022/08/31 コラム

【コラム】鎌倉殿の13人 畠山重忠の手勢わずか134騎。武蔵武士2人に共通した「だまし討ち」という最期

畠山重忠は嵐山町の菅谷館から鎌倉へ向かう途中、横浜市旭区の「二俣川」付近で義時率いる討伐軍からの雨のような弓矢の攻撃を受け、その最期を迎えました。

鎌倉有事の際にはすぐにはせ参じることができるように結ばれた鎌倉へ続く道。その鎌倉街道沿いに畠山重忠の館、「菅谷館」はありました。

菅谷館跡は東武東上線の「武蔵嵐山」駅から南西1キロほどの台地上にあります。台地の南側は都幾川に浸食された崖が形成され、居城を構えるのに、またその後戦国時代の城を築くうえでも地形上適した場所だったと言えます。

さて、北条時政の策略とも知らず稲毛重成の「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との報告を信じた重忠は手勢わずか134騎で鎌倉街道を鎌倉へ向かって発ちました。
畠山一族の多くは信濃国や奥州の地に在国中でもあったので、次男の重秀が重忠に同行しました。

畠山が鎌倉へ向かったことはすぐに鎌倉で知れることとなり、その動きを謀反として北条時政から重忠誅殺の命が義時に下されます。
もちろん重忠に謀反の心があったわけではなく、鎌倉に異変あり、という嘘の報告を信じての動きだったわけです。

そして、畠山重忠は途中の二俣川付近で息子の重保が殺されたこと、自分が謀反を起こしたとして追討軍が向けられることを知ることになります。どれだけショックを受けたことでしょう。または、次は自分の番だったかという口惜しさや裏切られた怒りがあったかもしれません。

重忠は家臣の進言に従って館に戻り、兵を整えることが出来たにも関わらずそこに留まり正々堂々と戦うことを選びました。重忠らしい潔い決断です。
手勢わずか134騎に対して北条義時の軍勢は約数万。圧倒的な数でのだまし討ちです。同じ武蔵武士の比企能員も北条時政の嘘の落慶法要に呼び出され、わずかな従者で館へ出向き、時政のだまし討ちにより散りました。

畠山重忠が最期を迎えたのは1205年6月22日、比企の乱からわずか1年9か月後のことでした。

討伐を命じられ、群を率いた北条義時は父時政からは重忠に謀反あり、と聞いていましたが畠山軍が130騎ほどだったことを知った時、義時はそれが嘘だったと気づきます。その後鎌倉に戻り、「首実検で重忠を見たときには、涙が止まらなかった」と時政に非難を込めて話しました。

武蔵国を治めていた比企氏亡きあと、同じ武蔵武士の畠山重忠はその土地を支配しその勢力を広げていました。それが時政にとっては邪魔になっていたのでしょう。

ただしそこには大きな誤算があったようです。時政は義時からの信頼を失い、また重忠を慕っていた他の御家人たちからの不信感が高まることになるのです。

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