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2022/09/22 コラム

【コラム】鎌倉殿の13人 政子に守られた源氏最後の血流。比企能員の孫、竹御所こと源媄子(みなもとよしこ)

鎌倉幕府四代将軍源頼経の正室「竹御所(たけのごしょ)」はその名を源媄子(みなもとよしこ)といい、二代将軍の頼家とその妻、若狭の局との間の長女でした。若狭の局の父は比企能員ですから媄子は源頼朝と比企能員の孫、ということになります。

媄子は、生まれた翌年に「比企の乱」が起こり比企能員の妻妾や異母系の「公暁」(頼家の次男)、「栄実」(三男)、「禅暁」(四男)とともに安房国(現在の千葉県南部)に配流となりました。
一説によると、媄子はその後母である若狭の局の出身地で比企氏の祖である遠光が館を構えたと言われる比企野で幼少期を過ごしたともいわれています。

どちらにしても媄子は生き残った比企氏の手によって無事に育てられたようです。

北条政子にとっては亡き長男「頼家」の娘、つまり孫にあたり、いかに勢力を争った仲とはいえ可愛くないはずがありません。また、北条氏による執権政治を確立していくためにも源氏の血統の者の存在が必要でした。

吾妻鏡には建保四年に竹御所(媄子)を三代将軍実朝の子とした記録があります。
実際は実朝と竹御所 は叔父と姪の間柄でした。
竹御所が実朝の養子となったその3年後。承久元年一月、実朝は鎌倉八幡宮で右大臣就任の拝賀式を行った帰路、石段の途中で公暁(媄子の異母兄)に殺されてしまいます。そしてその後公暁も謀反人として三浦義村の家人によって誅殺されました。

媄子と同じ様に公暁を想い、実朝の養子としていた政子にとっては大変な衝撃だったことでしょう。計らずも源の血を引く大切な三代将軍実朝を、長年仇討ちの機会をうかがっていた人物にその絶好の機会を与えてしまったのです。

突然三代将軍実朝を失った北条政子は、その跡継ぎとして同じ年の七月、京都より九条道家の二歳になった男子を申し受けました。のちの四代将軍「頼経」です。

同じく吾妻鏡には、翌年の承久二年(1220年)に頼家の子禅暁(17歳~19歳)が京都で挙兵して殺されたとあり、またそれより以前の建保二年(1214年)に栄実(14歳)も京都で挙兵して殺されています。
これにより頼家の遺児は竹御所ひとりとなってしまったのです。

やがて、1224年には姫ノ前(ひな)の夫であった北条義時が亡くなり、その翌年にはとうとう尼将軍北条政子も69歳で亡くなりました。

吾妻鏡によると、北条政子の葬儀を指揮したのは竹御所であったとあります。ですからこの時媄子は既に頼経との婚約を済ませていたと思われます。

翌年、幕府によって竹御所の邸宅が新築され、暮れの12月にこの新しい御所にお入りになりました。比企氏の仇である北条氏に囲まれた暮らしからこの時ようやく自由になったのです。

またこの年、頼経は征夷大将軍を拝命。なんと御年9歳でした。

その後頼経が13歳を迎えた年に娶嫁(かしゅ)の儀(結婚の儀)が行われ竹御所は入御されました。
竹御所の夫となった夫頼経が大変若かったこともあり、竹御所は尼将軍政子のように鎌倉殿に代わり政治を指揮する重要な人物としてその権力を認められていたようです。
吾妻鏡にも、頻繁に竹御所のことが記されています。

そして誰もが、誰よりも竹御所が待ちに待った時が来ました。天福二年、(1234年)竹御所は懐妊したのです。鎌倉は頼朝の血を引く後継者の誕生に沸きます。

しかし、このお産は難産となり「男児」を死産。なんと竹御所も他界してしまうのです。

男児だったこと、産所が北条時房邸だったこと。長い間、比企氏再興をまわりに悟られず、心に秘めていたであろう竹御所は、北条氏の権力が脅かされる時の彼らの怖さを誰よりも知っていました。もしかすると自分と我が子に訪れるはずの希望の未来の中に出産を前にして一抹の不安を感じとっていたかもしれません。

死産、そして竹御所の他界。

この報せに鎌倉の御家人たちは大いに落胆したそうです。
32歳の若さで悲しい最期を迎えた竹御所。

同じく2歳で京都から鎌倉に連れてこられ、家族と離れて北条一族の中で暮らすことになった頼経は同じ様な境遇の竹御所を慕い、夫婦仲は良かったと言われています。

幸いその後、竹御所が祈願としていた妙本寺が比企谷に建立され、竹御所を弔うための新釈迦堂も頼経によって建てられました。また、比企一族の残党として身を隠していた仙覚は竹御所によって帰省を許され比企郡に帰っていましたが、頼経はこの仙覚を新釈迦堂の僧として迎えます。頼経の命もあり、仙覚はその後万葉集の研究に励み、訓読が解明されていなかった全ての歌(152首)に訓点をつけ終えるという偉業を成し遂げるのです。

運命をその名の通りしなやかに過ごし悲しい最期となった竹御所ですが、歴史の中でその存在感と輝きを放っています。

竹御所のお墓は比企一族の菩提寺である妙本寺(神奈川県鎌倉市)にあります。

当社管理物件オーナー髙島敏明さんが代表の比企総合研究センター:https://www.hikisouken.jp/ 

参考文献:甦る比企一族 比企総合研究センター刊

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