お知らせ
仙覚(せんがく)は、比企一族が滅ぼされたまさにその年の1203年(建仁3年)に生まれました。
母である比企能員の子息時員の妻が、乱を逃れ東松山市高坂地区の正法寺(岩殿観音)で仙覚を出産したそうです。※
坂東10番札所である正法寺は頼朝や政子も崇敬する寺でした。こちらのお寺には政子の千手観音が祀られています。
さて、仙覚は聡明で学問を好み、1215年(建保3年)13歳で「万葉集」の研究をはじめました。
万葉集はその年代が明らかになっている最も新しい歌が759年の大伴家持(おおとものやかもち)の句なので、仙覚13歳の時には既に450年以上が経っています。現代で考えると織田信長の時代、戦国時代につくられた歌を私たちが研究するようなイメージでしょうか。
もっとも古い句はそこから130年もさかのぼり、わずか13歳でその研究を志した仙覚のたぐいまれな知的好奇心と探求心に驚きます。
仙覚32歳のころ、4代将軍の命により御台所である媄子(比企能員の孫、仙覚の姪)が葬られている鎌倉の比企ヶ谷の新釈迦堂の供僧職(住職)に就きました。
4代将軍頼経は「万葉集」の研究に深く心をよせ、1245年(寛元3年)に京都から歌人、源親行(みなもとのちかゆき)を呼びましたが心もとなく、比企ヶ谷の新釈迦堂にいたこの仙覚を万葉の研究にあたらせました。
仙覚は命を受け、はじめに異本が複数あった万葉の校訂に力を注ぎ定本をまとめあげます。そしてその後、将軍から注釈をつけるよう命じられ取り掛かることになります。
現代のようにインターネットも解説書も、手掛かりとなるような便利なもののない時代です。
仙覚は新釈迦堂の供僧職に就く前は天台宗、大慈寺の僧として修業を積んでいました。
その中で学んだ、慈覚大師円仁の伝えた悉曇(しったん)文字※や万葉仮名を駆使し、この研究を進めていきました。
※悉曇文字とは、北インドで使われたサンスクリット語を書くための文字。日本には中国を経由して奈良時代から知られ、平安時代に本格的に学ばれるようになりました。
研究は鎌倉の新釈迦堂で始められましたが、その後鎌倉の喧騒を離れ釈迦堂の供田(神仏に備える米を作る田のこと)のあった祖先の地、武蔵国比企郡小川町麻師郷(現在の増尾)に移り続けられました。
そしてついに「万葉集注釈」が完成します。
また、読み方のわからなくなっていた152首の歌に新たに訓点を加え、1253年には、仙覚奏覧状を添えて後嵯峨上皇に献上しました。
これが仙覚の「万葉集注釈・寛元四年本」です。上皇は大変感銘を受け、仙覚の歌である
「面影のうつらぬ時もなかりけり 心の花のかがみなるらん」
を続古今集に加えられました。
こちらの歌の意味について知人の俳人、A先生に伺ったところ解釈の一つを教えていただきました。
~今はもう会えない人だけど、心の中にある鏡にはあの人の面影がいつも映っている~
万葉集の研究に没頭して生涯を暮らしていた仙覚の一面がうかがえる、切ない恋の歌かもしれません。
(または大切な家族を失った歌?)
仙覚が鎌倉時代に思いを寄せていた方でしょうか。
さて、その後も59歳で再び校訂を始め、仙覚67歳の時についに完成された「万葉集注釈」は「万葉集鈔」とも「仙覚抄」とも称されています。
13歳のころから人生をかけた万葉集。校訂を重ね、完成させたその偉業は比企一族の一人だった事実と共に後世の人々に大きな意味を持って伝えられています。
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参考文献:甦る比企一族 比企総合研究センター刊
※仙覚と比企能員との関係については研究が進み、一部甦る比企一族記載と異なる点もあります。
当社管理物件オーナー髙島敏明さんより、最新の内容についてご教授いただき記載しています。
髙島さんが代表をつとめる比企総合研究センター:https://www.hikisouken.jp/