畠山重忠のもう一つの魅力をご紹介する前に、頼朝の死により主を失い政子と同様に最も悲しみに暮れていた「安達盛長」とその妻であった「丹後の局」についてご紹介したいと思います。
比企尼の長女である「丹後の局」は、平治の乱で源氏が敗れ、頼朝が平氏によって伊豆の蛭ヶ小島に幽閉されていたとき、母である比企尼のいいつけで頼朝に仕えていました。
流人時代
の頼朝は現代
の我々
の考える「流人」
のイメージとは違い、不自由な面はありながらも、
伊豆国内であれば行動は比較的多めに見られていたようです。
また、蛭ヶ小島といっても海上の島ではなく、川の中州のような場所であったようなので、外出は容易だったと考えられています。
さて、丹後の局と流人時代の頼朝との子、島津忠久は薩摩・大隅日向の南九州三か国守護職に任じられその後長く南九州を治める島津氏の祖になったことはコラム《比企尼はなぜ流人「頼朝」を20年も支え続けたのか、その狙いとは》の回でご紹介しました。
忠久が生まれたのは島津系図によると治承三年(1179年)とあり、それは、頼朝が北条政子と恋に落ちたちょうどそのころで、政子は嫉妬して丹後の局を伊豆から追い払ったといいます。「曽我物語」によると、それは治承二年(1178年)、頼朝32歳、政子21歳の時でした。当時からの政子の気の強さがうかがえるエピソードです。
忠久を生んだ丹後の局は、その後伊豆で共に頼朝に仕えていた「安達盛長」に嫁ぎました。ドラマにも登場する「安達盛長」は藤原氏の出を称して「藤九郎」といいました。藤九郎は丹後の局たちと共に、早くから蛭ヶ小島で流人頼朝に仕えていたそうです。
安達(藤九郎)盛長は現在の埼玉県鴻巣市糠田(ぬかた)の「殿ノ内出」に館を構えていたと言われています。このすぐ北にある「放光寺」の開基は盛長で、南北朝時代に制作されたといわれる木彫りの坐像(埼玉県指定文化財)が残されています。
(話がそれますが、この木彫りの坐像は近頃修復が行われており、その際に江戸時代の墨書が発見されたそうです。坐像の構造から、江戸時代に作られたということは決してないそうで、残っていた釘・かすがいの痕跡からすると過去に大きな修理が2回行われていたようです。一つの仏像を通してその歴史も刻まれていることに驚きます。)
丹後の局と安達(藤九郎)盛長の間には後の源範頼の正妻となる「亀御前」がいました。
娘(亀御前)の夫、源範頼が頼朝に鎌倉を追放され伊豆に幽閉されたとき、安達盛長も範頼について修善寺に赴いたそうです。しかし護送されて一週間目に範頼が自刃したので一旦鎌倉に帰ったと言われています。(範頼の最期については多くの説があります。ドラマでは刺客に襲われましたね)
やがて正治元年(1199年)正月13日に主君である頼朝がなくなると盛長は出家します。蓮西(れんさい)と名乗りました。そしてその後二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり、幕政に参画しています。
ところで盛長と丹後の局の間には、亀御前の他に男子、「安達景盛」がいました。
頼朝がなくなり、2代将軍となった頼家と盛長の息子景盛は不仲でした。
頼家は2代将軍となったその年の夏、中野能成や和田朝盛、比企宗員らに命令して景盛の愛妾を奪い、景盛を誅殺しようとしたそうです。危機一髪、景盛は政子に救われる、という事件がありました。これは吾妻鏡に記載されています。
吾妻鏡はその後権力を握る鎌倉幕府北条氏による編纂書であるため、内容については意図をもって書かれているとも考えられます。
その意図とは。
夏に起きた景盛の事件の後、秋の「梶原景時の変」をきっかけに忠臣を失っていく頼家。そしてその後唯一の支柱となった比企氏も北条氏によって滅ぼされていく、その正当性の伏線になっているのでは、とも考えられます。
話は戻って梶原の景時の変の後、安達盛長は再び修善寺を訪れます。
そして正治2年(1200年)4月、66歳で亡くなりました。
修善寺裏
の高台には安達盛長
の墓があり、近くには源範頼
の墓、
また少し離れて南側には源頼家
の墓もあります。
そしてその後1203年には比企氏の乱がおきます。盛長の妻丹後の局は身の危険を感じ、九州にいる我が子である島津忠久のもとへ向かいます。その警護にあたったのは越生氏(おごせ)の一族、越生宏斎であったと言われています。
それは当時、越生氏が比企・入間・高麗三郡の郡司であった比企氏の配下だったからだそうです。
また、その手引きをしたのは畠山重忠であったといわれています。
頼朝の死からわずか1年で亡くなった安達盛長。1年の激動の変化を見て何を想ったでしょうか。妻の丹後の局は夫亡きあと、比企の乱を逃れ遠く九州の地で息子忠久と穏やかに暮らすことはできたのでしょうか。
鹿児島県鹿児島市花尾町の花尾神社の境内には、丹後の局の墓が残されています。
社伝によると、建保6年(1218年)に島津忠久が父源頼朝、母の丹後局、神社創始者である永金阿闍梨を祭る為に創建したとされています。
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今回も比企総合研究センター代表である、当社管理物件オーナーでもある髙島敏明様にお話しを伺いました。
比企総合研究センター https://www.hikisouken.jp/ 参考文献:甦る比企一族 比企総合研究センター刊
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